5年

数学科という場所は本当に特殊な場所だった。みんなが自分は数学ができないと言うし、「数学以外のことはもっとできない、数学者以外の仕事なんて自分なんかにできる気がしない」という人だってよくいる。数学を使う仕事も世の中にはあるけれど、純粋数学をやっている人には「そういうのは自分の好きな数学じゃなくて面白くなさそう……」と言う人も多い。学部くらいまでの数学なら「ああ、それだけね」みたいなことを言ったりする。数学についていい加減なことを言う人がとことん許せない。毎日数学をする。毎週セミナーで先生から厳しい言葉を浴びせられたりする。そんな特殊な場所から、状況ががらりと変わった。

修士のときの指導教員はよく「扱う数学的対象が手に取るように分かるようになってください」と言っていた。指導教員のその言葉は、「手に取るように」という部分がすごく強調されていた。数学をやるには厳密でなければいけないというのは当然知っていたけれど、その「手に取るような」感覚は私は言われるまで持っていなかったような気がする。
専門性というものは一般にない文脈ということだろうが、積み重なった数学の文脈はさまざまな学問の中でもかなりの深さを持っていると思う。たとえば歴史的にも浅いコンピュータサイエンスは到底追いつかないと思う。
だから、一つの概念を「手に取るように」分かるのはとても難しいことだった。だからこそ、概念が少しでもはっきり見えてきたときの感動は大きかった。ところで、最近はもう概念の理解に時間をかけたことなんて全然なくなってしまった気がする。深い文脈からなる(かつ精密な)知識が自分の中からどんどんなくなってしまう。自分の中の大きなものが消えてしまう。一般向けの分かりやすい例を出すと、たとえば幾何学者は4次元空間(数学的に詳細な書き方はここではしない)が見えるとかいう話があるが、私は、「見える」かどうかはともかくある特定の意味でそれがどういう風になっているか、どういうつながり方をしているかが分かってイメージも沸いていた。そういう(少なくとも一見)現実から離れたものが私の中にあった。もう使うこともないし、忘れていくのかもしれない。もしトポロジーの特定のことを別のことで使うことになっても、それはあまりこのことには重要でないような感じがする。

指導教員に「インターンに行く、その後のことを悩んでいる」と相談したら、「数学をやりたいと切望するくらいなら数学をするのがいいと思います」と返された。切望とはなんだろうかと思った。それは取り憑かれているようなものだとも聞こえる。学部のときの指導教員はたとえ基本的なことでもすごく数学を楽しんでいるように見えたけれど、修士の指導教員はそういう風には見えなかった。少なくとも楽しさを分かりやすく感情表現しているところは見たことがなかった。

母親によく「楽しいことをして生きなさい」と言われる。その通りにしようと思っていたのに、楽しいことがなんなのかなんて本当に分からない。自分が酒に酔える人間なら適当に酔って今頃適当に死んでいたかもしれないと思うことがある。そういうこともできないし、生きることにそれほどの苦痛もないので、人生の中をただ流れている。