言葉について

ツイッターが不穏なのでブログでも書こうかと思った。ただ、自分は以前は文章を書くのが好きだったのに、今はそれほどでもない。以前に比べて本もあまり読まなくなった。

実家に帰って、実家に置いて行った自分の本棚を見た。自分でも存在を忘れていたような本がたくさん置いてあった。ほとんど学部の4年間で集めた本だ。数学書が多いけれど、人文系の新書などもいろいろあった。自分でも内容を覚えてないので、とくに何も語れない。

中学生のころ、小説を読むのにハマっていた。小説を読むのにハマり始めてから、普段から頭の中が言葉でいっぱいになる感覚を味わうようになった。本を読んでいないときでも、常に頭の中に文章が流れていた。書くことも好きになった。学校で、文章を書くのが上手いねと言われるようになった。
安部公房が好きだった。人生にすごく影響を与えたような気がする。「壁」という有名な作品が好きだったのを覚えている。初めてシュルレアリスムに触れた瞬間だったのかもしれない。

一方で、頭の中が常に言葉でいっぱいであるという状態は、おそらく精神的によいものではなかった。最近になって、あまり本を読まなくなって、頭の中に余裕ができてきてから、そのことに気付いた。

シュルレアリスムは、アンドレ・ブルトンの自動記述(オートマティスム)から始まる。無意識下もしくは意識に阻害されない状態での文章を残す試みである。しかし、自動記述への没頭は危険を伴うこともあり、ブルトンは自動記述の結果、羽の生えたライオンに襲われたという。私は、羽の生えたライオンをぜひ目にしたい。しかし、今考えてみると羽の生えたライオンというのも恣意的すぎる気がする。現実のコラージュではないか。もっとこう、ハウスドルフでもない奇妙な位相空間に飲み込まれるくらいでないと説得力がない。

あまり、シュルレアリスム的なことも考えなくなってきてしまった。現実を生きすぎた。反省します。