数学をやめてなかった

数学をやめた - すきなもの という記事を以前書いたものの、結局数学を再開していたので、また記事を書こうと思っていたまま数ヶ月が経った。

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数学ばかりし続けている時期がある。前の記事のように、焦燥感に駆られて数学をしていたこともある。ここ最近は、焦燥感に駆られるわけでもなく、ただ数学とツイッター以外のことをやろうと思わなかったので、そればかりしていた。この数日間は頭痛で体調が優れなかったので休んでいた。自然と色々なことを考えた。

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「どうして生きているのか」と聞かれたら「死ぬのが怖いからだ」と答えるし、それ以上の答えが思いつかない。「どうして研究をするのか」と聞かれたら、「そのことについて考えてしまうからだ」と答える。役に立つ研究、役に立たない研究、という話があるが、私は役に立たない研究も価値あるものだと思っていて、かつ役に立つ研究に興味がないわけではない。そして、私が役に立つものについて役に立たせる目的で考えるとき、それは人類に貢献しようという意志から来るものではなく、どちらかというと問題解決への純粋で個人的な知的好奇心のほうが強い。

役に立たないものについて、何を目指したいかというと、私は「綺麗な構造が見たい」という思いがあることが多い。ところで、私は数学的対象について「綺麗」や「美しい」といった言葉を使うことを避けたくなることがある。それらの言葉は、一般的にはたとえば広大な海を見たときに直感的に美しいと感じるだとか、スタイルの良い若い女性を見て綺麗と感じるだとか、なにか感性的な印象があるが、数学的対象についてのそれらはむしろ論理的釈明を持っている。もしくは、審美的な態度を持っている。数学をしていたただ感性的に「楽しい」と思うこともあるだろうが、そのように感じられるのは数学をしているときの一割くらいなんじゃないかと思ったりする。話を戻せば、私は「綺麗な構造が見たい」わけであるし、それを自分で見つけ出したいのだが、そう簡単に上手く行くわけではない。だいたいつまらないものができる。

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職業として研究者になりたいと強く思っていたときがあった。今も研究者を目指していることになってはいる。しかし、職業としての研究者に以前ほど固執することはもうないと思う。職業としての研究者にさほどの栄誉を感じなくなった。

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どうして悩むのかというと、私の脳がよく悩むようにできているのだからだと思う。不安には何の意味もないのである。それでも気がおかしくなりそうなことがあるので、横になって、なんの意味もない、なににもなんの意味もない、と唱えながら、意識を切り離そうとする。このまま永遠に意識が切り離されてしまえばいいのに、と思う。

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以前、自由に宙に浮く感覚を味わうことができた。全身の力を抜いて、目をつぶる。姿勢としては、横になっているか机に伏せているかが好ましい。意識のなかで、身体全体をシーソーのように揺らす(実際の身体は揺らさない)。そうしているうちに、身体がふわっと宙に浮く。このやりかたは覚えているのだけど、今やろうとしてもできなくなってしまった。小学生くらいのときから、これを応用して、身体を宙に浮かすだけでなく、覚醒したまま明晰夢のような状態になれないだろうかと考えていた。小中学生のときはうまくいかなかったが、高校生のあるときふとまた試そうと思った。夜中に明かりを消し、横になり、目をつぶる。いつもの方法で身体が浮く。はっきりと意識はある。もっと身体を浮かせる。そのうち、身体がコップの中にいる。夢ではなく、意識はあるままだ。私の入ったコップが暗闇の中を進んでいる。コップの中の酸素が減っている。死に向かっているのだと思った。その後にも様々なシーンがあったが、途中で恐しくなって目を開ける。意識は連続して続いている。夜中の3時になっていた。頭がひどく痛かった。とてもかなしくなってしまったので、もうこんなことはやめようと思った。それから身体を宙に浮かせていない。