話すこと

ここは「すきなもの」ブログだけれども、私は「話すことが好きです」と堂々と言えるわけではない。好きかどうかは置いておくとして、得意か苦手かで言うと、苦手なほうだと思う。思えば小学生のときはびっくりするほど静かな子供で、それに比べればだいぶ話すようになった。そして、たった今現在は、英語だけが通じる環境にいる。「会話」の大部分を閉める言語というものがすっぽり入れ替わってしまった。海外に滞在してこんな感覚を抱く人間がどのくらいいるのかは知らないが、私は「一からやり直し」をしているような気分である。

はっきりと記憶しているわけではないが、小学生のときはクラスメイトに「昨日、こんなことがあって、ああだったんだよね」みたいな話をされれば、私はただぼうっとしながら「ふうん」としか言っていなかったと思う。感想がなかった。そして、自分からクラスメイトに話しかけることもなかった。別に緊張して話しかけられなかったわけでもなくて、興味がなかった。興味がないということを認識できないほどに興味がなかった。もちろん友達はできないので、休み時間には一人でああだこうだと空想に耽っているばかりだった。空想をするのは、すごく好きだった。

そんな私でも、学年が上がると「友達がいないのはどうやらよくないことらしい」と認識し始めた。具体的なきっかけはないけれど、多分親や先生の言葉からそのように感じたのだと思う。そして、実際に友達がいないと色々困ったり損をしたりすることにも気付いた。そのころから少しずつ始めたことは、クラスメイトたちの会話に耳を傾けて、会話がどのように進んでいくのかを学ぶことだ。よく記憶に残っているのが、中学1年生の始めのころ、クラスメイトの女の子二人の「部活どうだった?」「うーん、」「楽しかった?」「うん、楽しかったよ」という会話だった。それを聞いた私は、なるほど「どうだった?」と聞かれたら「楽しかった」と答えればいいのか、と思った。それまでずっと何と答えるべきなのか知らなかった。もちろん、「楽しい」という単語自体は知っていたけれども。

おそらく、英会話を特別練習したことのない日本人の多くは、急に英語で話しかけられたら Yes/No くらいしか答えられないだろう。あとは、"I like ..." とか。英会話は中学生レベルの簡単な英語でもそこそこできるので、もっと多彩なことを言うための知識は多くの人が持っているはずだ。その「知識はあるが答えられない」という状況は、少し構造は違うけれども、私が小中学生のときに体感していたものと似ていた。だから私は英会話の練習を、小学校高学年から始めた日本語の会話の学習メソッドと同様なものとして感じている。レベルは1に戻ったけど、いくつかの武器は引き継いで、スタート地点に帰ってきた、そういう感じだ。しかも面白いことに、言語が制限されると感性まで単純になる気がする。欧米人の全体的な気さくさのおかげもかなりあると思うが、私はしょっちゅうニコニコする人間になった。小学生時代にはそこまで活用できなかった笑顔というものは、年齢と共に使い方を覚えていき、そして今スタート地点に戻ってみると引き継いだ武器の中で一番強力なものになった。なにより、小中学生のころは会話というのはただ必要に駆られてつらい思いをしながら学んでいったものだったのが、今は日本語でも英語でもそこそこ楽しんでできるものになった。それでも人間の根本はそうそう変わるものではないので、やはり自分は一人でいたいことが多かったり、ずっと他人と会話していると疲れたりするけれど。ともかく、言語的にスタート地点に戻ったことによって、そんなことを頭の中でふわふわと考えるのでした。

アメリカヘ

ケンブリッジに着いてから、一週間以上が過ぎた。今のところ大した不都合はないし、予想していた以上に心地良く暮らせている。それは多分ケンブリッジという街のお陰であると思う。

レンガ造りの、歴史を感じさせる建物と、現代的建築物が共に並び、木々や草地は綺麗に配置されて、公園の横を通るとリスが餌を求めて跳ね回っている。学園都市という性格上、全体的に落ち着いていて、人に何かを尋ねると大抵優しく教えてくれて……。飲食店はいくらでもあるし、地下鉄もあるので、生活にも困らない。四月でも寒さが残るけれども、最近暖かくなってきた。

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出発前はというと、日本から離れたくなくて仕方がなかった。絶対に日本の白米が恋しくなるし、寂しくてどうしようもなくなるだろうと思っていた。いざ来てみると、白米はこちらでも買えたし、今はそんなに寂しさも感じなかった。白米にはもちろん満足したけれど、なによりフルーツと豆乳がほんとうに美味しい。スーパーの野菜はかなり大きいけど、安い。こちらに来てから野菜ばかり食べている。うまい。しかしながら、こちらで sushi と書かれたものを見ると、大概アボカドかもっと酷いものが入っている。一度カリフォルニアロールを食べてみたけれど、つらかった。

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言葉はどうかというと、生活する分には困らないが、やはり一歩踏み込んだ会話はできない。専門的な(しかも、私が今まで勉強してきたこととも離れた)議論になると、もっと困る。よく「言葉なんてなんとかなるよ」なんて言われるけれど、個人的には、もちろん「なんとかなる」といえばそうかもしれないが、思ったよりはなんとなからない。異国の言葉で、ほんとうの気持ちを伝えられない。悔しい。まだ、たかだか一週間じゃないかと思うかもしれないけど、もたもたしていたらすぐに帰国の時期になってしまうような気がする。かといって会話においては上達の王道なんてものはまったく無いので、手探りで、ただただ進んでいくしかないのだと思う。

馬のアニメを見終わった

前に宣伝した馬アニメことボージャック・ホースマンをシーズン1、シーズン2ともに見終わった。

 

当初はこのアニメは金持ちで自己中な馬を笑う話だよって書いたけど、話が進むほどあんまり笑えたもんじゃなくなってくる。

この馬、幼少期に母親に愛されなかったことを回想したり、とにかく自分に自信がなかったり、自分がダメな奴だから色々うまくいかないということを自覚していたり、見れば見るほど他人事じゃなくなってくる。底抜けに明るい登場人物の犬(ミスター・ピーナッツバターという)を僻んでいたり。

この馬はとにかく金持ちでとにかく自己中という極端なキャラクターとして与えられているけれど、本質に近いものは結構いろんな人が持っているんじゃないか。世間的に見たら頭が良くてもやけに自信がない人間なんてそこらじゅうにいる。客観的にはまったくダメ人間じゃないはずなのに卑下ばかりする人間だってしょっちゅういる。そういう人たちの象徴みたいなキャラクターだ。

 

シーズン1のエピソード4は「陰属性と陽属性」というタイトル。ミスター・ピーナッツバターが主演するホームドラマには双子の姉妹が出てくるという。双子の片方、ゼルダはいわゆる陽属性で、普通の明るい女の子。しかしもう片方のズーイは陰属性で、ひねくれている。馬やミスター・ピーナッツバターらで、みんなは双子のどっち寄りの人間かという話題が盛り上がる。馬はもちろん陰属性のズーイ。ミスター・ピーナッツバターはゼルダ。ミスター・ピーナッツバターの彼女であり馬のゴーストライターである女性、ダイアンはズーイ。

ダイアンは賢くて落ち着いていて俗っぽくない女性で、馬も気に入っている(私も気に入っている)のだが、陰属性のダイアンがなんでミスター・ピーナッツバターと付き合っているのかは不思議だった。作中でもそのことは触れられていたが、ダイアン曰くズーイだからこそゼルダの彼とうまくいくのだそう。この感覚はシーズン2の最後まで見てやっと分かった気がする。

(ところでズーイという名前はサリンジャーの小説「フラニーとズーイ」から来ている気がする。)

 

ちなみに馬の方はというと、女を抱くことはいくらでもできるけど長年付き合える彼女は一切できない。なんとなく快楽で恋愛できても、本気で誰かを愛したりするのって難しいよねっていうのも作品中でテーマとして出てきて、私なんかはどんどん切実な気持ちになった。切実だ。

 

それでは、このアニメの中で一番印象に残ったセリフで締める。生活が荒みきったダイアンと馬の会話:

 

ダイアン「ニューヨークの舞台話は本当に嬉しかった? 」

ボージャック(馬)「ちょっとかな……」

ダイアン「もし映画が満足のいく出来だったら?」

ボージャック「それも、ちょっとかな……」

ダイアン「何が問題?」

ボージャック「何かが足りないんだ」

ダイアン「あなたが最後に嬉しかったことって?」

ボージャック「……」

 

馬のアニメがおもしろい

Netflix のボージャック・ホースマンというオリジナルアニメが面白い。まだ3話しか見てないけどキャラクターの設定が本当によい。

主人公のボージャックという名の馬は、全米で大ヒットしたコメディドラマの主演俳優だったのだが、今は落ち振れてひっそりと暮らしている。この馬はとにかく性格が悪い。人の話は聞かないし自己中だし酒と女が大好き。お金だけは無限に余っているのか、いい家に住みながらふらふらとした毎日を送っている。

お金が余っていてかつ好き放題できるという生活、庶民からすれば羨ましい部類に入ると思うけれど、この馬はあんまり人生(馬生?)が楽しそうじゃない。過去の栄光に浸りながらも虚ろな台詞を吐いたりする。世の中を憂ったりもする。

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3話になると、天才子役と呼ばれていた元共演者が登場する。彼女もまた強烈なキャラクターで、天才子役と呼ばれその後はセクシー路線で人気を増していくが、30歳にもなれば落ち振れる。彼氏に「君はもうセレブじゃない」と言われると狂って街中でODしたり自分の腹を刺したりする。

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一言でまとめてしまえば性格の悪い金持ちの元スターがつらい感じになっているのを眺めて HAHAHA と笑うアニメである。私はというと性格の悪い金持ちを笑って楽しんでいるというより、こういうスタイルのフィクションが新鮮だったので面白いと思っている。あと、私の中の「アメリカ人っていつでも HAHAHA って笑って人生たのしそうだなー」という雑なイメージが覆されたのでよかった。阿部共実が好きなあたりから、単にコメディ化されたつらい話が好きなだけな気もするけど。とりあえず、Netflix は一ヶ月無料で利用できるし、馬アニメ、お勧めです。

ツイッター

ツイッターは六年くらいやっていて、基本的にやっていて良かったと思っているので良かったことを列挙しようと思う。

 

・大学を受験した

これは本当に、ツイッターをやっていなかったら大学受験していなかったと思う。詳細に書くと身バレ容易なくらいそこそこ特殊な理由なので書かないけれど。これは確実にツイッターに人生がかなり大きく左右された事例だと思う。

 

・バイトが手に入った

高3のとき、携帯代が払えなくてツイッターでワーワー言っていたらバイトが見付かった。そこのバイトがきっかけで技術系の人々と知り合えた。自分の中でかなり大きい体験の一つ。

 

・フランス語を授業で取った

今まで読んだフランス語の文献の量を考えると結構得してたと思う。

 

・カレーが好きになった

タイムラインにやたらとカレー好きが多くて、スパイスからカレーを作る人も何故か複数人いた。いつのまにか影響されていた。

 

ハロープロジェクトが好きになった

昔タイムラインで(悪い意味で)話題になっていた某ハロプロのドラマを見たのが最初のきっかけでハマった。

 

・Cyriak を知った

・面白い人間(複数)と知り合った

・etc

 

なんかこう列挙すると意識高い系の人みたいだけど、まあツイッターが良いというかほとんど偶然の産物だと思う(重要)。でもツイッターの情報を信じて損した経験とかはそれほど思い浮かばなかった。運が良い。

ちなみにフォロワーが多いときは面倒なこともあった気がしたけど、転生したら何にも不満がなくなった。ツイッターラブ

うまいたべもの

記憶の限り人生で最初に好きと主張した食べ物はミートソーススパゲッティであるが、家族に好きだ好きだと言った一方でほんの僅かな月日の後に美味しいと思えなくなる。

次によく覚えているのはサイゼリヤの辛みチキンである。これは以後まずいと思うことはなかった。しかしいくらか時間が立てば私にとってそれが好みかどうかはどうでもよく、ただ毎日決まって辛みチキンを頼むことで家族を笑わせたかった。私にとって価値があったのは頭がよいことと人を笑わせることだけだった。

その後、家族とサイゼリヤに行くと辛みチキンとガーリックトースト以外に何も頼めなくなる。何かを頼むとそれを好んでいると判断されてしまう。今更何を好きと主張すればいいのか。

好きな食べ物は、自分には無縁で恥ずべきものだと、意識の外で信じ込み始めていたのかもしれない。

 

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初めてデートなどということをする。レストランでものが選べない。純粋に、笑われる。これでいいや、と思う。

 

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選んで食べるものに傾向が見出せたが、それに気付くと急に恥ずかしくなる。

 

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好きな食べ物が分からない、と主張するようになる。

 

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食べ物はサイコー

鳩のこと

私が初めて鳩に魅力を感じたのは Cyriak というアニメーターの  "Cycles" という作品を見たときだった。このアニメーションを無理矢理言葉で説明するならば、以下のようになる。

——チップチューン風の、軽快かつ風変わりなリズムを持つ BGM 。映し出される道路には車が何台も走り去っていき、歩道では人が歩く。そんな日常的な風景に、少しずつ異変が起きていく。突然巨大なテディ・ベアが現れたと思えば、街を破壊するわけでもなくただ道路を渡って画面から姿を消す。何体も何体もテディ・ベアが現れ、皆ただ同じ行動を取り、消える。そのサイクルのなかに生ずる次の異変が、巨大な鳩の出現だったのだ。

巨大な鳩は、乗用車の上に乗って現れる。鳩は乗用車より少し大きい。しかし乗用車はそんな鳩を乗せようが少しも自らの車体を軋ませることなく走る。このアニメーションのなかの日常は、巨大なテディ・ベアと鳩という二つの異物をものともせず、淡々と回り続けていた。——

テディ・ベアが歩くアニメーションというのは世の中にいくらでもありそうだが、巨大な鳩が車に乗って現れるなんて他に誰が思い付くだろう。私はその突飛な映像に、夢と現実の統合、もくはシュルレエルを感じたのだった。

 

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1年前だったか2年前だったか、私は研究室の指導教員に勧められた研究集会をサボって都内を散歩していた。目的もなく歩いているとお茶の水公園に辿り付いたのだが、そこには驚くほどたくさんの鳩がいた。ちょうど足が疲れていた私は公園に入り、適当な段差に腰掛けた。私がカバンからパンを取り出すと、大量の鳩たちが一斉に私のもとへ飛んできた。私の膝の上に乗る鳩もいた。まったく警戒心はないらしい。私は少し嬉しくなって、パンをちぎって投げたりして遊んだ。

そうして鳩たちの人気者になったかのような気分に浸っていたが、そのうち一人の40代だか50代の男がニコニコしながら公園に入ってきた。すると私の足元にいた鳩たちはくるりと方向転換し男のほうへ集っていく。男は「ほら、みんな」と言いながら餌をばら撒いた。鳩は皆、私への興味は失くし、男の撒く餌に夢中だった。私はパンを自分で食べ、少し休憩した後、公園から出た。どこへ向かったかは覚えていない。

 

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駅のホームに鳩がいるのは、とても幸福なことだと思っている。たとえば、ありきたりに将来への不安なんかを考えながら電車を待っているとする。無機質なアスファルトがストレスによる疲労感を引き立たせる。その景色なかに一羽でも鳩が首をコクコクと縦に振りながら歩いていれば、私はそれを眺めているだけで、すぐに電車が来てしまう。

私には好きな生物もいくつかいるが基本的には人工物が好きで、「自然のすばらしさ」などといった標語には関心がない。一方で鳩のほうは自然の中でも人工的な環境でも好んで暮らせるらしい。

私はよく「ゾウになりたい」と思うのだが、「鳩になりたい」と思うことはあまりない。ベタに大空を自由に飛んでみたいと思うこともあまりない。鳩は私が普通に生活をしている中に勝手に入り込んできて、彼らもまた普通の生活を送っている。勝手に入り込んできたものを傍観している、それくらいの距離感が良いのかもしれない。おそらく、ある日急に街から鳩がいなくなっても、私は気に留めもしないのだろう。